唄口は最近では滅多に見ることがなくなった象牙に金巻き。中継は藤巻きに銀三線が施されています。
非常に吹き込まれた管なのか、非常に良くなる管だったからこそ吹き続けられたのか、とにかく良く鳴る逸品です。ひび割れ補修の藤巻きも上から下まで盛大ですが、管体のひび割れも正しい補修をしていれば、尺八の鳴りに悪影響を及ぼすことはありません。
お勧めの一管です。
明治期以降、西洋音楽の影響を受けた演奏家や製管師が多孔尺八の開発に臨みましたが、九孔尺八においては、現在、
三井香揚山作が完成度の高さで群を抜いているようです。
ちなみに伝統的な尺八は、指孔は五つ。
例えば、一般的な一尺八寸管ですと、普通に鳴らすだけだと、全閉音=D、一孔を全開=F、一孔・二孔を全開=G、一孔・二孔・三孔を全開=A、三孔・四孔を全開(一孔・二孔は全閉)=Cの5音のみ、ということになります。
ですから、普通にドレミファソラシドを鳴らすには、西洋の管楽器で云うところのベンドダウン奏法にあたるメリ(=沈り、音高を下げる)を習得しなければなりません。
尺八のその他の技法、スリアゲ、スリサゲ、コロコロ、ユリなども、基礎として、このメリとカリ(=浮り、音高を上げる/ベンドアップ)のふたつ、メリカリの習得が必須となります。
もちろん、西洋の管楽器もベンド奏法をマスターすることは表現力の幅を増すことに繋がりりますが、尺八の場合は、メリカリこそが表現力以前の基本的な技法の中心になるわけです。
しかも、そのベンド幅は西洋楽器の比ではありません。上記の通り、普通に吹けば5音しか出ないわけでしすから、全音分をメル(=音高を下げる)のは当たり前。開放孔の音ならば2音以上下げる大メリという奏法も古典本曲の演奏においては習得が不可欠となります。
尺八は非常に多くの方に親しまれている楽器というイメージですが、音楽に到達するまでの鍛錬の道程が険しいため、挫折する方も意外に多い楽器でもあるようです。
多孔尺八は、五孔尺八の不安定な部分を改善し、より音楽的に高度な領域に到達できるよう苦心した改革だったはずなんですが、批判する方々も多く、現在は蚊帳の外に置かれているのが実情のようです。
その背景には、西洋音楽を基準にした音程や音階に擦り寄るような姿勢は如何なものか、そもそもメリで鳴らすからこそ、尺八独自の表現なのではないかと、との考えが多勢だからでしょう。
確かに、その通りだと思うのですが、ならば現在主流の演奏用尺八、つまり管の内側の節を削って塗りを繰り返し、内径を調整しながら音程バランスを整えた地塗り尺八=調整尺八も、音楽的に高度な領域に到達できるよう製管師が開発した改良版尺八なんです。
いにしえの普化宗の虚無僧からみれば、自然な竹にここまで人工的な手を加えてしまっては、本来の尺八の響きは半減してしまう、と嘆くでしょう。(苦笑)
そうなると、地無し(管内には殆ど手を加えない)こそが尺八だという意見が、もっとも筋が通っているような気がします。確かに地無し尺八には地塗り管では表現困難な柔らかく深い響きがあり、なるほど、コレが本来の尺八なのかなと感銘を憶えます。
ただ、地無し尺八は音程バランスがひときわ不安定なため、純粋な音楽表現の道具としては、あまりにも枷が大きく、音楽的な発展は望めなかったはずです。演奏家側も流石に三曲合奏となると地無し管だけでは正直ちょっとキビシいなぁと云う意見が占めたのではないでしょうか。
ただ、『孔はいいよ、そのままで。うん、五つでいいんじゃないかな? いや、たしかに沢山開けて貰えれば、簡単に鳴るんだけどさ、なんつーの、私らも切磋琢磨してメリカリしてきたわけじゃない。それがさ、済し崩し的にね、明日からメリなしでよろしくっていわれてもねぇ、それは譲れない部分だからさ』
ということなんだと思うわけです。尺八が尺八たる所以は、五孔でメリカリすることにこそあるということですね。改良は地塗りで終了!!それ以上手を加えたら、尺八とは別の楽器になってしまうから、と。
ちなみに、
三井香揚山作の九孔尺八は、
メリカリが出来ない方の為の尺八ではなく、より幅広い音楽ジャンルに対応出来るように製作されたプロフェショナルモデルです。
尺八本来のメリカリはもちろん、大メリもまったく問題なく演奏可能ですので、古典もOKです。滅多に流通しませんので、是非お試しを。